テイトメー 四季 春 Green Spring(THE FOUR SEASONS)/森博嗣

■あらすじ

 僕は透明人間だ。僕はいつも四季の傍にいる。四季は五歳だけど子供らしくなくて、とても頭がいい学者だ。天才だ。
 ある日、僕らのいる病院で看護婦が殺される。四季は犯人がわかったみたいだけど、教えてくれない。
 四季の元に各務亜樹良(かがみあきら)が現れ、四季の資金集めを手伝う。けれど四季は云う。「私、別に、生きていたいなんて思わない」「生きていることが、どれだけ、自由を束縛しているか、わかっている?」
 四季は僕を必要としてくれている。けれど僕はなんなんだろう……?




■テイトメー

 森博嗣の小説は即答できるもので「すべてがFになる」「虚空の逆マトリクス」「φは壊れたね」ぐらいだけれど、今回はかなり異色だった。
 まず主人公は「僕」であり、名前を明かされず病院で暮らす「透明人間」である。体に包帯を巻いていて、驚かれるのを嫌がって最初は四季にも包帯をほどいて体を見せることはない。
 そして真賀田四季(まがたしき)。「すべてがFになる」でも登場した稀代の天才であり、本書はその四季の幼年時代を叙している。ちなみに四季シリーズとして『春』『夏』『秋』『冬』とあるので、推測するにおそらく真賀田四季の成長もしくは死に至るまでの経緯をこの四冊で表しているんだろう(四作を合本したものもあるってさ)。


 「すべF(すべてがFになる)」では大人になった四季があんなことになるわけだけれど、本作では幼年であり五歳から始まる。が、天才としは開花しており、裏表紙のあらすじには『天才科学者・真賀田四季。彼女は五歳になるまでに語学を、六歳には数学と物理をマスタ、一流のエンジニアになった。』とある。いわばラノベとかアニメに出てくるような記号的な天才ではなく、作者・森博嗣の考える「真の天才」を具現化しようとしたのが真賀田四季だろう。
 彼女は「四季ちゃん」ではなく「四季さん」と呼ぶよう強制(呼ばれたがる、ではなく強制)し、本に集中しているときに話しかけても無視し、本を読んでいるときに「僕」が他人と会話していると本を読みながら相槌を打ってくる。子供っぽさをもたず、小さな体に見合わぬ大人びた(もしくは気質的な)言動をする(体は、子供。頭脳は、大人!)。この幼年であるが天才ゆえに理解してしまっているというぎこちなさと、天才ゆえに無能な人間を切り捨てる無情なところが同時に介在している。
 こんなふうに「天才とはどういうことか」といった具体的内容が、いくつかは「すべF」でも表されていたが、本作では如実であり難解でもある。


 本書の見所は「天才・四季の思考と言動」と「”僕”という透明人間の存在」と「看護婦殺人事件」の3つである。
 このうち最後の「殺人事件」は、ほとんど重要な位置を占めておらず、四季が犯人を知りつつ教えないというイケズなことをすることで作中全体を通して謎を残すことと、ミステリとして体裁を保つぐらいの理由らしい。しかし謎というほど長続きする興味をもたせられていない(「すべF」でもそのケがあった)し、だから単に殺人事件が起きる作品=ミステリという程度の浅はかな存在理由にしかなっていないと思う。一応はドンデン返しっぽい殺人事件の内容にはなっているけども、別のカタチで明かし方のほうがしっくりするような気がした。殺人事件として露見することがひとつの形式であるということはわかるんだけど、その犯人を明かさないというのが「謎を残す」という浅はかさに繋がるんじゃないかなぁ。ミステリとしてはかなり半端だから、殺人事件は起こったりするけどミステリじゃない形式、だとかにしたほうがよかったのかもしれない。まあ、本作がミステリだなんて作者は云ってないんだけどね。


 森博嗣が僕より頭がよくて年齢も上で経験も豊富だってのはわかってんだけど、この人のトリックは「せこい」印象を受ける。物理トリックをあんまり使わずに、使ったとしても最終的には「概念」を操ってなんだかんだごまかす、みたいに受け取れる場面がある。本作ではそれが「透明人間」であるが、どのように透明人間が存在し続けていられるかが読者の興味であって、それをあんなふうな理由にするのはある種の裏切りだと思う。京極夏彦の「姑獲鳥の夏」も、最初は「なるほどおもしろいなー」とか思ってたけど、同じ理由で「それはどうなんだろう……」と納得できなくなってしまった。


 そういえば京極夏彦の、逼迫したシーンで連続改行するという書式を、真似ているような書式があった(僕も真似てますが)。京極氏の場合はスピード感を出すためだろうけど、森氏の場合は動的でも活発でもないシーンで使っていたから、たぶん印象に残すためのスローモーションみたいな役割だと思う。



■いんとれすちんぐ(興味が湧いた箇所)



 四季の補佐役で森川という女性が登場するが、四季の母親が森川を辞めさせようとしたという話題を”僕”と四季とで話すシーンにて、こんなものがある。



四季「私も期待してはいない。お母様の判断は、実はとても優しいものだし、それに正しいわ」
僕「正しい?」
四季「正しいなんて、その程度のものです」



 この言葉が読んだ瞬間に少し残った。2006年にベストセラーとなった「国家の品格」で作者・藤原正彦が「論理は間違っている」と云っていたのを多少の疑問があれど納得できた僕は、「正しいなんてその程度」という簡単な言葉が少し心地よかった。


 別の、森川の進退を相談する2人の会話でこういうのもある。



僕「気をつけた方が良い。ヒステリィになられると困る。おかしな兆候があったら、早めに切った方が良いと思うよ」
四季「リスクは大きくはない。適度に優しくはしているつもり。面倒だけれど」
僕「賢明だと思う」



 この2人の非情とさえ映る器質さにシビれましたw


 また”僕”が四季に「僕の命に、何の価値があるかな?」と聞いたとき、「貴方の価値は、私が知っています」と云うシーンがある。このときの地の文で、こんなものがある。一部略。



彼女には、価値がある?
僕の、命が?
背筋がぞっと寒くなる。
何が僕を惹きつけるのだろうか。
つまりは、既に僕は、彼女の中に取り込まれた部品の一つ、ということだろう。僕は彼女の一部になってしまったのだ。隷属しているのだ。



 この隷属という、いわば透明人間・僕は四季の奴隷だと知るのだが、彼は彼女の部品として少しでも彼女に影響を与えられることを幸せと感じる。これを見て、この主従の関係をふと不思議に感じた。
 上位の四季は下位の透明人間に指令することができ、下位の透明人間は上位の四季に反抗することは許されない。一般的には下位であれば自由がなく不幸だとされる。でも、上位の四季は、四季の存在すべての一部分を使って透明人間に接するのであって、下位の透明人間は、全身全霊をもって四季に接するのである。そして透明人間・僕はそれに喜びを感じている。透明人間はとても幸せじゃないだろうか? 下位ではあるが、上位の四季よりも。そう考えると、主従というのも本人たちの見方で一般的見解とは異なるものかもしれない。


 森博嗣は英語も堪能らしく、カタカナ語での伸ばす音「ー」を省略したりするのは通例(「ミステリー→ミステリ」「ヒステリー→ヒステリィ」など)だが、「ワイパー」を「ワイパ」にするのはさすがに無理があると思いました。FUJIWARA原西のギャグかよ。



原西「ワイ、パッ!」



 「いないないばあ!」のように顔を隠してから「ワイ(関西弁でワシなどと同じく自分のこと)」が「輝く」だとか「パッと現れる」という意味で、「パッ!」と云いながら手を開いてあのゴリラ顔を露出させるのである。彼には色んなことにめげずにやっていってほしいと思います。



あ、引用は一部略してます。