リストラ

 また東大名誉教授の某氏著作を読んでいたんだけれど、そこには「企業はリストラではなくワークシェアリングするべきだ」と書いてあった。なるほど、と感じた。また同様に「リストラは村八分だ」とも書いてあった。


 イギリスのジェレミ・ベンサムという法学者は「最大多数の最大幸福」という言葉を残している。
「なるべく多くの人間が、なるべく多くの幸福を感じることができるようにあるべきだ」というふうに解釈しているけれど、これを「多数の人間が幸福感を得るためなら、少数を犠牲にしてもかまわない」と曲解してはならないだろう。
 とまあそういう言葉があって、リストラを決行する企業と云うのはこの理念についてまったくの無視を決め込んでいるようにも思える。リストラってのは実に単純明快だ。金に窮しているからそれを補うために無駄を減らす、その無駄がたまたま人件費だっただけのこと。しかし待てよ、と止まる。人を物と捉える企業を信じられるだろうか、って。
 企業は人なくしては成立しない。ホッブズの著作での冒頭に、企業や社会を人体になぞらえる記述がある。詳細は忘れてしまったけれど、下っ端の社員は血液や細胞で、役職が上がるにつれて肺や肝臓などの臓腑という重要な器官に格上げされる。リストラってのは、食べるものがないから足を切り落とそう、ってことなんじゃないだろうか。マンガ版の赫足のゼフみたいに。もし自分が飢餓にあえいでいたら、同じことをするかもしれない。けどそれは自分の身についてのことだからかまわないと思う。けど企業がする分にはどうか。普段、俺たちは自分の細胞が生きていることを知らない、感じない。企業については細胞たる社員はたとえどんなに下っ端で平だろうが、生きている。企業は、そうした細胞たる足や細胞を切り落とした際、再生させることが難しいことを知ってるんだろうか? それともいずれ医療技術が発達して、殺いだ細胞が生き返らせられるのを待つつもりか、もしくはそもそもより切り捨てる覚悟だったのか。どういう理由にしても、納得するのは難しい。たとえるならワークシェアリングは、患部たる指先の壊疽を切り落として、細胞を蘇生させるために腹を切って手を差し込み、自己再生能力に任せるようなものか。詳しい名称を知らないために煩雑な説明になって申し訳ない。


 企業がこうした飢餓などに陥ったとき、それを看護してくれる医者はいない。いわば患者と医者が同一だから、患者自身が自分の生きる術を見出して治療しなければならない。助言する人ぐらいはいるだろうけど、その人が最善の道を知っているとも限らない。最大多数の最大幸福の道を探すのは酷く難しく、そもそも叶えられないものかもしれない。けれど生きている細胞をあっさりと切り捨てるってのは、快く思えないものだ。