Carpe Diem

「いまを生きる」という映画が大好きだ。
この映画は、全寮制の男子校へ新任の教師ジョン・キーティングが現れ、生徒たちに型破りな方法で詩を教え、子供たちは彼と触れ合うことで自由に生きることを望むようになる。結末は悲惨なものなんだけれども、キーティング先生の詩の授業が楽しそうで、俺はこの映画で初めて詩に触れたのを覚えている。教科書を生徒に破り捨てさせたり、見方を変えるのは大事だと教壇の上に立たせたり、校庭を歩き回りながら詩を口遊んだり……
映画を最初に見て、後々には原作の小説をも読むこととなった。ラストシーンでは泣いてしまったことも深く覚えている。そういえばロビン・ウィリアムズに本格的に嵌ったのはこの映画を見てからかもしれない。
この邦題である「いまを生きる」とは、劇中に登場するラテン語の「Carpe Diem(カルペ・ディエム)」の和訳。ちなみに英訳では「Sieze the day」で、「今を掴め」というのが直訳になる。命令形で「掴め」「生きろ」というのが近いらしい。


時間というものを現代社会では、過現未の3つに分ける。すなわち過去・現在・未来。まあそもそもそこに疑問を提唱したいものではあるが、それはまた別の機会に。
現在というものはたった一点で、未来が過去になっていくその一瞬のこととされる。そして未来は実際に存在するかどうかも疑わしく、過去は蓄積する。
未来に生きる、というと前向きな感触がある。なにがあっても先を見据え、挫けずに夢を見続ける。だが、それは独善的で、あまり他者を思わないもののようにも思える。要は振り返ることも顧みることもない分、気持ちに訂正をしない。「海賊王に俺はなる!」と故郷を飛び出すのはいいけれど、前を見続けて夢破れて帰らぬ旅となるのが果たしていいと云えるか。場合によっては妥協も必要だし、夢より生が大事だと見極めることも大事だ。
過去に生きる、というと後ろ向きな印象がある。かつての出来事や思い出に縛られ固執し、それを糧に生きる。昔とった杵柄を肴に酒でも呑んで愚痴を零していそうだ。
今を生きる、と現代風に解釈すると、刹那主義とでもなろうか。未来は先のことだからわからない、過去は戻ってこないからどうにもならない、それなら今をただ縦(ほしいまま)に過ごそう。実は、俺は刹那主義に近い生活を送っている。だが心情としては、純粋な刹那主義ではない。俺はなにごともバランスだと考えているから、今が全てではなく、未来も過去もそれなりに扱わないと崩壊すると思う。だから「今を生きる」というのは、「後悔しないように全力を尽くせ」という風に考えている。さらに云えば「後悔しない」、そんな生き方や選択肢はないと思っている。飽くまで「後悔しないように」生きて選択するというだけで、実際に後悔しないかどうかは別問題ということ。単純に心理的なもの。


某氏曰く「今を生きる(=いつ死ぬかわからないから満足しろ)を実践すると、先に残るようなことをしなくなる」と。俺は小説を書いたりしてるけれど、かつての同志(笑)に「いつかは世界を席巻するようなものを書きたい」と云ったことがある。そやつはその道をとうに諦め、教師を目指した。他にもそいつに関してはいろいろの事柄があり、俺のなかでヤツは「へたれ」のレッテルを貼られている。今思えば大風呂敷を広げたものだと思うし、俺にその実力はないし、いつか身につくかどうかも甚だあやしい。それに今では席巻することが幸せかすら疑っている。だから「なにかを残す」ということに意味があるかどうか悩む。また別の友人には「自己満足で小説を書く」と云っているヤツがいる。どこにも発表せず、ただ自分が保持して書くだけの小説。それがなにがしかの花となり実となるかは皆目わからないが、本人が満足ならいいと思う。それは所謂「ものを残す」のとは違う。たとえ死後に誰かがその作品を見つけたとしても、それは「ものが残る」という自動詞だ。意志で残したのではなく、勝手に残ってしまった。そう云うことだ。
これを拡大解釈すれば、発表した作品が黒歴史となってしまえば「後に残る」のであり、作品が大絶賛されれば「後に残す」ことになる。発表した作者が満足すれば「残した」栄誉であり、失策となり恥などを覚えれば「残る」傷痕になる。
ではどこがボーダーラインか。聡明な方々ならわかっているかもしれない。「満足」という点である。自己満足でもオナニーでも、本人が満足しているならそれでいい。逆にどれだけ泰斗であっても、満足できないなら不幸せで愚かだ。ときにクリエイターには「満足することなどない。どんな作品にも妥協した場所があるし、改善点がある」と云う考え方がある。至極立派だと思う。心底。よき作品を残すには大切な考えだとは思うが、それが幸せに繋がるかどうかはまた別だ。
No.1にならなくてもいい、もともと特別なオンリー1。苦笑である。ならなくてもいい、ではなく、なれない、これが大多数だ。それに気づかなくても、この言葉で安堵し安らぎを得るなら幸せだ。もしこの言葉に甘えを見出し、偽善だと感じて厭世的な暗澹たる心持ちになるなら、それは不幸だと云えるのかもしれない。