自殺について

今日はずっと自殺のスレにいたよ。
時間が丑三時から朝方にかけてだったから、ヌクモリティというか叩きの少ない感じでした。
(ヌクモリティって嫌いな言葉だった。
2chやVIPが好きみたいなニュアンスがあるからね。嫌いだし、俺)


けっこう俺と近い考え方の人がいたりして、まあそれでも細かい意見はもちろん違ったりしてたんだけど、こういうのはやっぱり鬱を進行させるよりも救いになるという可能性が強い。
よく「死にたいなら死ね」とか「迷惑する奴らのことを考えろ」という人間がいるが、それは自殺を考えたことのない人間だと思う。自殺を考えたことのある人間は、その状態のときはどれだけ余裕がないかってわかると思うから。
俺は悩んでる人に対して「お前の気持ち、わかるよ」とか臆面もせず云えるタチじゃないから、同じ境遇にいる人間じゃないとわからない、むしろそれですらわからないことがほとんどだと考える。だから自殺を考えない人が的外れなことを云ってもまったく頓着しない。


んでいろいろ気づいたりしたこともあったんだけど、俺は思った以上に太宰に傾倒してる。自分があることを考えたり行動してるとき、それを上回って優越する自分がいて、そしてなおかつそんな自分に嫌悪する。ときにはそれをすら愉悦にする。
まあ常日頃は他人を罵倒しないよう心がけているんだけれども、ときおり罵倒しない自分に危惧をおぼえて罵倒しなければと考えることがある。そしてそうしなければと考える自分は低俗だと悟る。だがその罵倒しなければという行為は活字のための行為であり、そうやって根拠づける自分はそこらへんのダラダラした人間とは違うと喜ぶ。ときによってはその自分をさらに嫌悪し、嫌悪できる自分をすら褒める。これは爆笑問題の大田が云っていたことだが、太宰の人間失格にはこういった感情がうかがえるとのこと。言葉にするというのは怖いもので、それまでまったく気にも留めなかった人間失格のその感情の部分を、大田の一言で強烈に意識するようになってしまった。そしてそn末(か、いずれそうなっていたかもわからないが)、メタ構造の優越と劣等とのミルフィーユを味わうこととなってしまった。


そんで自殺ってとこなんだけど、そこはかとなく仄かに芥川の自殺に憧れを抱いている。唯ぼんやりとした不安、と書き残して死ぬ。自己の終焉として、他者にこれほどの謎を残すことは難しいだろう。紛うことなく命を賭しているのだから、重きことに偽りはない。また俺は彼の死を軽んじているような口ぶりだが、おそらく彼自身は本気で死んだんだろう。所詮、生には意味がないと考える身だから、死にも同様に意味はないと考える。だが他人は違うだろう。だったら自分の死で他人に与えるなにかがあるならおもしろい。命を賭すというのはなによりも重い行為だから真実味がある。


持論としては、「自殺したいと考える人間は他人のことを考えない」ということ。「迷惑がかかるから自殺するな」という言葉に対する反駁だ。死ぬことを第一義に考える人間にとって、どうして他人のことを気遣うことができるだろう。自殺に対する反論として「迷惑だ」というのは間違っていないにしても、言葉にするだけの価値はない。自殺しない人間に「自殺は迷惑だ」と云ってもどうにもならないし、自殺する人間に「自殺は迷惑だ」といっても通用しないのだから。これは自殺しない人間の理論に大きく流用できる。「死ぬ気になって頑張れ」「もっと苦しんでる人がいる」「甘えだ」。こういった言葉は、多く自殺願望者に届かない。真摯に受け取る人間はたしかにいる。だがそれは自殺へのベクトルを強くするだけだ。「死ぬ気になって頑張れ」には「これ以上頑張るくらいなら努力できない」と云う。「もっと苦しんでる人がいる」には「他人は自分以上に強いかもしれないが、自分は弱いからこの程度でも死にたい」と云う。「甘えだ」には「そうだ。だから淘汰される」と云う。
こういう人間に対して、それでも迷惑だなんだと云いたいなら、それは自殺願望者に対してではなく、そう云うことで自分が満足するためだと理解したほうがいい。助ける意図もなく自殺を助長するのは、自殺幇助だと考える。法的根拠はなくても、自殺幇助だと考える。


一部の人間にはよくわかるだろうけど、俺には責任能力が著しく欠けている。これは完全な言い訳だから、見たくない場合は読み飛ばしてほしい。俺は完全理想主義だ。完全主義を理想に掲げている。責任についても同様で、自分がきちんと対応できるだけの責任なら贖う準備はできている。だがそれ以上の責任は贖い切れない。そして理想主義と完全主義とのギャップが立ちはだかるんだが、自分の責任能力のキャパシティは驚くほど乏しく、電車で他人の踏んづけてしまったことぐらいにしか完全に責任をとれない。たとえば会社での失敗なんかだと、会社への損害が憂慮される。その損害をどうやって贖うのか。そもそも自分の過失で発生した損害を加減することなく精密に測ることなどできない。つまり贖うということは、発生した損害以上の責任を果たすことによってしか果たされない。会社というのは組織であり、個人ではなく多人数が密集してできている。その多人数がこうむったことになる被害以上の責任を果たすということが、一個人にできると俺には考えられない。だから実際にその責任を贖わなければならなくなると、逃避しかなくなる。なにせ今の俺には財産がないから。バイトばかりしているから、金も当然ない。バイトだから逃避が簡単だ。そうして逃避ばかり続けていれば、財産なんて築けない。だから金がない。悪循環。ループ。