キョンと村上

今、新しく買った「涼宮ハルヒの戸惑」をやってる。


前から仄かに思ってたことなんだけど、キョン村上春樹は似ているのかもしれない。断じて、「ハルヒ」と「ハルキ」っていう音が似てるって意味じゃなくてさ。


キョンも、村上の小説の主人公も「やれやれ」をよくつかう。これって呆れてる意味があるんだろうが、要は「俯瞰視点」だってことなんだろう。自分が巻き込まれている状況を客観的に見て、上位の視点で眺めている。キョンに関しては、それが決して作品のなかに介在できないはずの読者を、主人公に感情移入させやすくしてるのかもしれない。キョンの本名が明かされず、ニックネームだけってのもその一因。
んでもうひとつ。ゲームや小説ってのはまあ、普段起こりえないことが起きるってのが通例で、それを楽しみたいがために読んだりするわけなんだが、彼ら(両作品の主役)はそれを客観視して上位の視点で見ている。つまり精神的に余裕が伺えるわけだ。その余裕というのが実に魅力的に映る。
たとえば考えてみよう。普段、女性と話し慣れていない人間が女性ばっかりのところに放り込まれたら、パニックに陥ってオイシイ状況なんて味わえないだろう。でも彼らは違う。その女性ばっかりの状況を俯瞰して、さらに余裕までもって行動や判断するわけだ。だからこそオイシイ状況に陥る作品となるわけであるが、さらにいえば俯瞰することで主人公はその状況を悲観する。そうすると適度に抑制がかかって、オイシイ状況から倫理的にマズイ状況に陥ることを免れることができる。つまりエロゲ的展開にならなくて済むってこと。まあ、村上についえはオナニーとか手コキとかセックスとかウザイけどな。


とまあ、余裕のない人間だからこそ発見できた(勘違い?)ことであるが、強ち間違っちゃいないような気がするんでごぜえます。