物乞い

通勤の駅までの道に、一人のホームレスがいる。乞食然としたいかにも臭そうな身なりで、実際に傍らには桜桃の空の缶詰が口を開けている。妙に落ち着いていて、周囲の人間はあまりその存在にすら気づかないようだったが、物乞いなど当然の如く気持ち悪くて、そいつを見ると私はいつも早足で駅へ向かうのだった。


ある日、少し同僚と飲んで酔っていたときのこと、その爺が話しかけてきた。
「アンタ、よくここ通るお方だねェ」
好々爺と呼ばれてもおかしくない笑顔で、そう零した。私はオヤ、と思った。
「いつも駅まで歩くのはつろうござんしょ」
古臭い喋りに私は笑い返した――鼻で、だが。そのときはただ声をかけられただけで、私はいつものように足早に帰った。


朝早くに会議のある夏、遅刻しそうになって車をつかった。大嫌いな雨の日だったのは丁度よかった。普段は使わないようにしていたが、已むを得ないときにはつかっている。その翌日の夜、帰宅途中でまた話しかけられた。
「おタク、昨日は仕事休みなさったのかえ」
そのとき課長への昇進が確定して浮かれていた私は、爺の言葉に応える気になった。
「車、さ」
爺はホウ、と些少驚いたようだった。
「いつもは電車をつかっておられるのにの」
私は同僚にその質問をぶつけられたときのための、定型の回答を口にした。
「自分で運転するのは得意じゃないんだよ。渋滞も嫌いだしな」
実際、真実だった。爺は合点したように頷いた。爺はもう問答に飽きたらしくそっぽを向いた。俺は帰途につこうとして、ふと振り返った。爺は、同じくみすぼらしい背格好の――だが若い男と話していた。


それから何度か、爺と話す機会があった。とくに変哲のない凡百なうすのろだと見てとれる。でなければ物乞いになどならない。私は心のなかで笑いながら――いや、たぶん面に出ていただろう――そして、六年が過ぎた。


私は専務の地位に坐していた。正直なところ、人生はなんと詰まらないのだろうと嘆息していた。こんなに思い通りになるだなんて、ゲームとして下らない。部下や元上司など愚鈍な人間を追い抜くなどたやすいのだから。
だが私には、それらの無知蒙昧な人間よりもおもしろい人間というのに気づいたのだ。
そう、あの物乞いだ。あの爺は六年が過ぎても物乞いだった。なぜ働こうとしないのか、わざわざ負け犬の道を歩くのか聞いたことがあったが、爺はこうしているとなにか見える気がする、といつもの笑みで呟いたのだ。おもしろい。実に笑わせてくれる! 地に落ちた凡百が這いつくばるのは見ていて飽きなかった。そこにはプライドや諦観などなく、ただ無様な老体が腰を曲げているだけだった。


そして社長を引きずり下ろす算段が整った日、私はしたたか呑んだ。そして笑った。私より一回りも年下の女を喚かせながら笑った。薄汚い妻と別れ、煩いだけの娘に三行半を突きつけられるときも近かった。
篠突く雨のその深夜にも爺は座っていた。
「今日も車じゃござんせんか」
しとどに濡れながらも笑みを崩さず、小声で呟いた。なぜか雨音に掻き消されなかった。
「ああ、これは俺にとっちゃ恵みの雨だ」
笑って爺の肩を叩く。桜桃の缶詰の蓋は閉じていた。
「繁盛したか?」
少し爺にも愉悦を分けていいと思えた。爺は雨に表情を隠して、えぇマァと言った。
「今日という日のなんたる素晴らしき哉!」
傘を放り、私は呵呵大笑した。
「本当だ」
足元がもつれた。酔っていたからではない。爺がもたれてきたのだ。
「おい爺じゃれつくな、汚いだろ」
ゆっくりと爺が顔を上げる。睨んでいた。
「汚いのはあんただ」
訝る私を爺が突き飛ばす。脚に力が入らず倒れる。なにか文句を言おうとしたが、息が漏れる。
爺の手には赤いものが携えられていた。ふと腹を見ると、濡れたスーツが朱に滲んでいた。
「今日を憶えていますか」
爺は空を仰ぎながら呟く。俺の言葉を待ち、しかし声が出せずに返せないことに気づき笑う。
「六年前」
爺は言った。六年前、孫娘が事故に遭いました。瀕死の重傷でしたがなんとか一命は取り留めましたァ。しかし息子夫婦はなにかと諍いを起こすようになり、孫が目を覚ますのを待たずして離別しました。離別と言いましても単なる離婚じゃござんせん。二人とも行方をくらましてしまったわけでサ。娘の面倒を見切れません、と置手紙を残して。残ったのは、孫娘と私と、そして。
爺が振り返ると、男が立っていた。いくらか若いが、痩せこけていて歳はわからない。
明美の兄、友輝です。爺は続けた。友輝には手を汚させたくなかった。だから見張りだけを頼んでたんですよォ。友輝と呼ばれた男が顔を上げた。その顔には見覚えがあった。
「そんなに驚くこたァないじゃないですか」
爺に目をやると、手中の鈍色に光るものが見えた。100円均一で売っていそうな安いナイフだ。
男が近づいてくる。桜桃の缶詰を手にしている――かと思えば、なかから同種のナイフを引き出した。
爺が、男がにじり寄る。私は車道まで身を引きずった。足が思うように動かず、腕だけで後退する。背を向けて這いずる。匍匐がこんなに苦しいとは。いや、呼吸自体が苦しいのか。
周囲を見渡すが、車の影すら見えない。他に人の気配もない。ああ、あんなに走るのが嫌だった道で、車が来ることを願うだなんて。
振り返ると、爺が笑っていた。いつもの笑みで。
「そんなとこにいると、車に轢かれますよォ」
爺と男に脚を引かれ、あらん限りの声で叫んだ。しかし傷ついた声で叫んでも雨音に消されるだろうことは、私がよく知っていた。








BNSK「「文才ないけど小説書く」も三周年を迎えたんです」にて投稿。
1時前だったことが災いしてか、レスは1つ。

98 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/04/01(水) 01:17:09.96 id:rMM+TsPC0
>>90
事故で孫娘をどうこうって言う展開を書きたいのなら、色々と伏線の張り方が不味い。
まず、事故を起こす前から物乞いは物乞いでいたわけで、そんな物乞いが息子夫婦が
何たらを語るのは実に不自然。
一応それなりの家庭生活を営んでいる人の親が、彼らのことを気にかけながらも自分は
物乞いだなんてシチュエーションは変ですよ。


そして、大切な事故についての伏線も薄っぺらだと思う。
人一人瀕死にしておいて、彼がその後の人生をその嫌疑から逃げ続けられたのに、物乞い
にはそれがばれているなんて出来すぎた話は無いでしょう。


ってところです。プロットをもっと丁寧に作るといいと思う。