テイクオフ

1.ホップ


 僕の夢は、鳥のように空を飛ぶことだ。
 海に程近いこのゲントは、アメリカ最大の造船の町ノーフォークからの煽りで仕事はしおしおだが、その技術は他に引けをとらない。なにより僕のマクガフィン師匠がいるんだから、間違いない。師匠は修繕中の船舶から降りると僕のほうも見ずにいう。
「ポーター、剥げてる塗装をぬりなおしとけ」
 僕が塗装の量を聞くと、師匠は平坦なトーンで4キロだといった。
 師匠は白い口髭をかきながら、眉間にしわを寄せて出て行った。いつものことながら不機嫌そうだ。
 師匠は、船と飛行機のエキスパートだ。船だけならノーフォークに仕事の凡てを奪われてただろうけど、飛行機があったからこんなおんぼろの小屋でも仕事ができる。
 1度めの塗りを終えた僕は、汗を拭いながら天井を仰いだ。小屋とはいえ、小型船を3艇、小型飛行機を2機収めることができるドックだ。そのなかに1機ブルーの機体がある。僕が夢を叶えるために、師匠がスペースを割いてくれている。ネジをひとつポケットから出して見つめると、早くシーフォワード号の作業に移りたくて、2度めの塗りを始めた。




2.ステップ


 シーフォワード号のコックピット内は狭く苦しい。そのなかでの作業とあれば、汗が噴き出すのはしかたがないことだ。息継ぎのために顔を上げると、機体の傍で師匠が腕を組んで黙って立っていた。僕はフロントのプロペラの向こうにある青い空を見つめる。
 あの空へ。そう遠くない未来――
 かたく目を閉じる。気持ちを引き締めて目を開き、フライングテイルの整備に移る。
 この世界には、まだまだ未知の領域がある。ライト兄弟が飛行技術を開発しても、その事実に変わりはない。いくら船舶が古来から造られ続けてきても、それ以上の昔から現在まで未知の領域は僕らを見つめてくる。
 ――ううん、僕らがその領域に気づき注視しているからこそ、見つめ返してくるのかもしれない。
「ポーター、飯にするぞ」
 師匠の淡白な声が小屋に響く。無理な体勢を続けたせいで軋む体をゆっくり動かして顔を上げる。師匠は親指で外を指す。いつのまにか暗闇が広がっていた。僕は頷くと、ふらつく体を気遣いながら降りた。師匠の向かう先の部屋から、暖かくおいしそうな匂いがした。




3.ジャンプ


 師匠が戻ってこない。僕は心配でたまらなかった。
 予定通りなら2週間以上前に届くはずだったフュエルが来なかった。それがノーフォークの造船組合が、フュエルを横からかすめたせいだというのはすぐにわかった。飛行機に着手する手がけとしてプロペラ機の製作にとりかかり、そのためにプロペラ機の燃料が必要だったということらしい。師匠は組合に直訴しに行ったきり、もう10時間も戻ってこない。朝方に出て行き、空が暗くなってもまだ、だ。シーフォワード号の整備はすべて終わっていて、あとは燃料を待つだけなのに。
 ノーフォークでは明後日、スカイパレードが行われる。それがフュエルの流れた理由の一端でもあるけど、それ以上に問題なのは、明日までに飛び立つことができなければシーフォワード号を解体しなくてはいけなくなることだった。
 夏という季節柄、タイフーンが発生する見込みが強い。幸か不幸か、ノーフォークでのスカイパレードは問題なく行えそうだけど、もし僕が明日飛ぶことができなければ、スカイパレードがある明後日はテイクオフできず、またそれ以降はタイフーンの危険性を考慮して見送らないといけない。
 さらにはドックに収められる2機のうち1機分をシーフォワード号が占有していて、営業を圧迫しているせいもある。その1機分を空けるためにはシーフォワード号を移動させなければならないけど、このゲントという町には長期間プロペラ機を収められるドックがないのが現状だ。だからもし明日飛び立てなければ、諦めるしかない。
 世界では大戦の懸念がされている。来年まで待ってなんていられない。けれども今、僕には師匠を待つことしかできない……。師匠が出て行ったときの様子を思い出す。無言で眉をしかめて、僕を制する。慌てて師匠が駆け出し、放した受話器が垂れて地面に当たった。僕は受話器を戻したけれど、これからどうなるのかを想像することもできなかった。
 空の向こうには暗闇。師匠は、孤児だった僕を育ててくれた。ドック内に忍び込み、部品を盗んで売ろうとしていた僕を引き取って育ててくれた。あまつさえ僕の夢を叶えようと逼迫する財政難をこらえて飛ばせようとしてくれた。世間では寡黙な師匠のことを悪し様にいう人が多いけど、ノーフォークに完全に押され切っている造船で生活できている師匠への憧憬もあるんだろうと、最近になって気づいた。僕も最初、師匠に捕まったときは殺されると思った。けれど師匠は盗もうとした部品の代わりにネジをひとつくれた。
 師匠と暮らすなかで、一度だけ師匠が僕に話してくれたことがある。師匠には息子が一人いたけど、息子は造船に携わるのを嫌がり空を好んだ。飛行機なんて、と師匠は息子を否定した。息子は家を出て、それ以来ずっと音信不通だという。
 人の目に見える闇というのは、哀しみや後悔なんかの表れじゃないかと思う。そう考えると昔は怖がっていた暗闇も、平然と歩けるようになった。師匠も、師匠を悪くいう人々も。ひょっとしたらノーフォークの人たちも。


 ドアの開く音に目が覚める。外は明るかった。ドアの傍らには師匠。平然とした顔で、のそのそと師匠は僕に歩み寄る。肩に手を置いてぼそりといった。
「今日、飛べ」
その手はオイル臭かった。




 コックピットのなかで、動悸がはやる。空を飛んだこと自体は少なくないけど、さすがに海の先を目指して飛ぶのは初めての経験だ。この空の先にはどんな場所があって、どんな人がいるんだろう。小さな列島なんかはいくつもあるらしいし、そこでは補給もできる。でもその先にはなにがあるんだろう。そのもっと先には――
 心臓のあたりに胸をあてながら師匠に目をやると、師匠は小さく頷いた。
「いつでも戻ってこい、ポーター。お前の場所は、ここにある」
 大きく頷き返す。ありがとうございます、と言おうとしてやめる。戻ってきたときに、言おう。
 涙で滲む視界のなか、ポケットからネジを出して見つめる。このシーフォワード号と同じブルーの塗料に染めてある。師匠が僕を見ているのを感じて、慌ててネジをポケットに戻すと、発動機を始動させる。プロペラがゆっくりと回る。師匠がプロペラの挙動に目を向けている間に、目元を拭う。プロペラの回転速度が上がる。風が、目元に涼しい。ゴーグルを着ける。
「――行ってこい!」
 師匠が叫び、機体が前に進む。次第に速度は増し、世界が霞む。
「行ってきます!」
 機体が空に飛び発つ。天地がひっくりかえるような高揚感のなか、振り返った。師匠が笑って手を振っている。僕は片手を掲げた。海は青く、空は広かった。
 この先になにが待ち受けていて、この先にどんな人がいようとも、僕はこのシーフォワード号の名に誓って前へ進み続けるんだ。




4.着地


 解体されていくドックを、マクガフィンは静観していた。スカイパレードを見ることもなく連日働く作業員に、心の内でマクガフィンは感嘆した。ポーターが発って一週間が経つ。パレードは滞りなく終わり、タイフーンは予定通り陸上をかすめることなく、沖のほうを過ぎていった。
 フュエルが横流しされたのはノーフォークの組合の罠だと、マクガフィンはとうに気づいていた。ポーターが飛ぶということを知り、このドックを潰すいい機会だと思ったのだろう。実際、手際よく解体作業は進められていた。パレードが滞りなかったのも、予備のフュエルがあったせいだ。マクガフィンは口の端で小さく笑んだ。
 ふいに喧騒が聞こえた。ドックから少し離れたところにある浜からだ。
 浜では人集りができていた。その隙間から見えた物体に驚き、マクガフィンは駆け寄る。
 それは、ブルーの塗料がついた金属片だった。ひとつではない。微塵になった大小様々な欠片が浜の土を汚している。その鉄片のなかかから、ひとつだけ青く塗られたネジを手にとった。夢を追う者は、前ばかり見つめて後ろを気にしない。
「こんな形で戻ってくるんじゃねえよ――」
 そのネジはオイル臭かった。