幻を想う

僕はアイドルオタクだ。
けれど、世間でいうようなオタクではない――と思っている。

ライブには行ったことがない。イベントはなおのこと。それどころか彼女たちの顔を実際に見たことがない。
テレビや雑誌を通してでしか見たことがない。
つまり僕と彼女たちには、必ずカメラが挟まれている。

僕らのサークルの仲間の一人、ナカノはこういう。
「オレとアイリちゃんはカメラっていう赤い糸で結ばれてるんだあ」
グラビアオタクのムラキは
「カメラなんてなくてもいい。どんな苦労をしてでもミヤちゃんに会ってみせる! カメラなんて壊しちまえ!」
と激昂する。
僕はといえば。別になんの感慨もない。だってカメラがないと僕らは彼女を見ることができない。
彼女たちはテレビ番組に出ることも、写真に収められることもなくなる。廃業。そんなの常識だろ?
悔しくもなんともない。心からそう思う。


なぜ僕がこんなことを話すのか?
そうだね、君は口が堅そうだから話してもいいかもしれない。このサークルの他の人たちには内緒でね。
忘れもしない2年前の夏。ちょうど今ごろの、陽炎がたゆたい始めるころのことだ――


僕らはサークルの仲間内で、ムラキの家の近くにできたメイド喫茶に行くことになっていた。
あいつらは太ってるからね、汗をタオルで拭きながら歩いていた。僕はさして興味がなかった。
ナカノは古くからの付き合いでそれを知ってるから、強制することはない。
でも僕はその場所へ行くことよりも、みんなといることが楽しいから黙ってついていくことが多かった。

突然の蝉時雨。少し異様な空気を感じて、僕は振り返った。
人通りは少なくないし、一応は繁華街で通っている場所だ。でも僕にはその瞬間、そこが別の世界に感じられた。
いってみれば、写真展や画廊に並べられた一枚の絵、みたいなものかな……
我にかえって前に向き直ると、もうナカノたちはいなかった。

メイド喫茶の場所を聞いてなかった僕は、周辺を20分ほど歩き回った。
一人では来たことのない場所だったからか、自分のいるところがどこなのかもわからなくなった。迷子だね。
辺りには落ち着いた草原が広がっていた。僕の腰ぐらいの高さの葉が道の両脇に茂っていた。
視界の先には丘がある。山というほど大きくはなく、でもどこか毅然とした佇まいで、青い空に映える緑の丘。
立ち昇る草いきれのなか、僕は歩き出した。

草むらを抜けると、丘には木立が並んでいた。薄い木下闇ができていて涼しい。
風はさわさわと梢を鳴らし、若い青緑の葉が揺れる。
数分も歩けば頂きに着くのはわかっていた。もうそろそろだな、と予想をつけながら歩く。
下枝で扉のように閉じられた隙間を、ちょっと強引に抜ける。その先には、開けた明るみに出た。
目の前は緩やかな下りの勾配になっていて、眼下には街並み。視界は隣町から遠くの山稜までが臨める。
僕はそのとき、この場所に歓迎されていると感じたんだ。
ふとケータイのことを思い出して、撮っておこうと考えた。
けど被写体はあまりに広すぎて、またケータイでは満足できるものになりそうになくて、結局やめた。
ほら、キミも満月を撮ろうとしたりしたことはない?
悔しいけれど、ケータイはまだ自然に適うまでにはなってないのかもしれない。

ケータイを仕舞おうとしたとき、後ろで葉っぱの擦れる音がした。そこには人がいた。
淡い青のワンピースに黒い髪。僕はあまり服装にはこだわらないからよくわからないけれど……
とてもやわらかな輪郭をもっていた。
そしてその肌は陽射しを受けて透けるように白く、少し青みがかった瞳は僕の目を見ていた。
え? ああ、かわいかった。いや、そんなことはないよ。もう、そう興奮しないで。
……うん、そうだね。たしかに、僕はそのとき彼女に一目ぼれしたのかもしれない。うん。そうかもしれない……

僕はどれくらい彼女を見つめてたんだろう。気づけば彼女は草の扉の向こうに隠れようとしていた。
慌てて僕は逃げないで、って手を伸ばした。彼女は怯えたふうに身をすくませる。悲しかった。
どうすればいいのかわからなくて、おろおろとしていた。
彼女と、僕の後ろに下る坂とを交互に見やって、僕はゆっくりと後ずさる。
そのとき僕の手からケータイが落ちた。急いで拾おうとすると、彼女が少し身を乗り出すのが見えた。
ケータイを手にして「これ?」というふうに目の高さに掲げてみせる。彼女はおずおずとうなずく。
僕は笑って、彼女にケータイを差し出した。
そのときは、なにがそんなに興味を惹いたのかわからなかった。ただのケータイだよ?
折りたたみ式のカメラつき。
古い型ではないけど最新のモデルでもない。丸いフォルムのいくらか傷がついた濃紺。
彼女はしばらくそれを触っていた。ケータイを手渡してからは、僕が隣にいても気にしないふうだった。
いろんな音を再生すると驚いたり、画像を表示させるとおもしろがったりしていた。
けどなにより、カメラを気に入ったようだった。
シャッター音が何度も響く。緑を映したり街並みを撮ったり、ときには僕をパシャリと。
そして僕が彼女の手元を操ってみせる。すると画面には彼女の顔が映る。
メインカメラからサブカメラに変えただけだったけれど、彼女にはそれが最大の驚きだったみたい。
わーわー喜びながら自分の顔を触ったりつまんだりしながら幾度も幾度も撮る。
少しカメラの容量が不安だった。
いっぱいになってしまったら、彼女が撮る写真はそれ以上、保存できなくなってしまうんだろうなって。
そうならないように、それに彼女が気づかないように密かに願った。
それから彼女と僕は並んで座り、撮った写真を眺めていた。
カメラは結局いっぱいにはならなかったけれど、それはそれでもったいないと思ってしまった。
画面に集中する彼女を、そっと見る。純粋な日本人というわけではなさそうだった。
髪は黒くつややかだけれど、やっぱり肌の白さと目の青みがかったのがそう思わせた。
僕には彼女がどこか……天使のような気がした。もちろん僕はそんなに信心深くはないよ。
ただなんていうかな、男女だとか友達だとか、そういう今までに味わったような雰囲気じゃなかった。
少し日も傾き陰りが濃くなり始めた。遥か先には大きな入道雲。青い匂いをはらんだ風が頬をなでる。
いつまでも永遠に、ここにいられるような気がした。
目をつむると消えてしまいそうな、穏やかな時間はゆっくりと流れていった。

しばらくすると彼女はケータイを返してくれた。ひとつ大きく、にっこりと笑んで。
僕にはそれが太陽のように思えた。
その途端、辺りが薄暗くなった。見上げると曇天。かすかに雷鳴も轟いている。
彼女を見ると、あきらかに怯えていた。僕と出会ったとき以上に。

すると彼女が走り出す。慌てて僕は彼女を追った。
木の葉が体を打つなか、彼女を見失わぬように走る。そのとき雷が大きく鳴った。
彼女が小さく悲鳴をあげ、僕は空を仰いだ。
枝と葉の天井で、うまく空が見えない。そして彼女も見失ってしまった。
あてずっぽうで探して歩いていると、また開けた場所に出た。
さっきとは別のところだ。景観も違うし、いくらか高さがあるように感じた。
僕はそこが丘の頂きなんだと悟った。肌になにかが当たると同時に、一続きの長い音が落ちてきた。雨だ。
それも目も開けていられないほどの驟雨。へばりつく前髪を抑えながら、目に入る雨を拭う。
なぜだろうね。あんな大雨のなか、なにか他の音が聞こえるはずがないんだ。
だけど僕は木の葉の擦れる音を耳にした。
その先には、やはり少女がいた。淋しげに笑って。なにか言いたかったのかもしれない。
けどあの雨では聞こえなかった。僕には聞こえなかった。
少女が葉の裏に消えると、僕は諦め悪く走って追った。もうすでに彼女の姿は、はっきりとしない。
木や葉、雨、そして薄闇。もうすでに目的を失ったように、ただがむしゃらに走っていた。
胸が苦しくて、嗚咽のように声をあげた。それでも走って、見つからなくて。だから僕は大きく叫んだ。
すると目の前になにもなくなった。いや、視界を遮るものがなくなった。
僕はもときた草原まで戻ってきていた。そのときにはもう雨はやんでいたよ。
呆然としていると雨の代わりに蝉時雨の声が響いてきて、足が前に進んだ。
街並みに戻ると、あいかわらずの人の数。
「おーい」
その声に慌てて振り向く。声を聞けばすぐわかるはずなのにね。
ナカノは僕に走り寄ると、肩で息をして膝に手をついた。
「どこいってたんだよ」
呼吸を整えると、ナカノはそういった。
「しばらく探したけど見つかんなかったから、先にメイド喫茶には行ってきちゃったぞ」
額の汗を拭いつつ、ナカノは後ろのムラキたちを見る。
「文句はいいっこなしだぞ。悪いのおまえだかんな」
ムラキはそういうと、目を点にして僕の顔を見た。
「おまえ――なに泣いてんの?」
みんなの視線が僕に集まる。頬に手をやると濡れていた。そのとき初めて、雨に濡れていないことに気づいた。



この話を僕は、今まで誰にもしてこなかった。返ってくる言葉は、わかりきっていたからね。
僕はもとから熱狂的なアイドルオタクじゃない。
どこか冷めていたのは自分でも知っていたけど、それを嫌う人もいるのは確かだ。
だから僕がこのサークルの部長ってのも気に食わないかもしれない。君もそう思うかい?
はは、困らなくていいよ。別に気にしないから。
そういうことだから、信じてもらうために話すっていうのはしたくなかったんだ。

これは失礼な言い方になるかもしれないけどね、このサークルのみんなは僕より幸せかもしれない。
なにも考えずに、純粋に好きな人に熱中できるんだから。
僕は、好きな人と自分が隔てていてもそれが当然のように思えてならない。
しかたないと諦めるような気持ちになることすらある。
……さっき僕は彼女のことを「一目ぼれ」っていったっけ? あれは、やっぱり違うんだと思う。
たしかに彼女のことは好きだけど、やっぱり恋愛感情ではないんだよ。
心の底から大切なものは、けっして汚せない。追ってはいけない。そういうことなんじゃないかな。

カメラ? ああ、彼女が撮った写真ね。ぜんぶ見れなくなった。
なぜかケータイは壊れてしまったんだ。雨に濡れた……ということにでもしておこうか。


これでこの話は終わり。なにも続くものはないよ。
あ、もうひとつだけいいかな? 最初に誰にも話さないでって言ったけど……できれば忘れてほしいんだ。
ごめんね、ほんと身勝手で。ただ僕のなかでは、あの出来事は幻なんだよ。
僕はただ幻を見て、幻のことを想っている。ただそれだけなんだ。

Ende.






この「幻を想う」は、bnskにてお題をもらって書いたもの。
そのお題はまんま「幻想」。

この小説にはこんなレスがついたとさ。



539:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/31(木) 04:45:33.23 ID:44d86xp30
おお、おつかれおつかれ。
結構面白く読めたぜ。
少女がカメラを好きな理由が気になったけど、
その答えが出ないのも幻想っていうのかな、いい感じだ。ていうか少女自体が幻想か…。
背景描写も上手いと思ったし、正直俺じゃ、どこを直せだなんて言えそうも無いわw

541:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/31(木) 05:30:44.74 ID:39Fn2QvP0
乙。寝起きに気持ちのいいものが読めてよかった。
二度寝したらいい夢みれそうな感じ。

625:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/07/31(木) 22:30:54.20 ID:zSatS0zD0
2人称が効いた。最初の部分が布石になってるなんてわからなかったから最後読んで最初読んでゾクッとした。
効果的なプロローグってあまりお目に掛からなかったからちょっと感動。
陽炎がたゆたい始めるとか、薄い木下闇ができていて、とかあまりお目に掛からない語彙
(木下闇って知らなかった)をばっちり違和感無く使いこなしていたりで参りました。

品評会とかでもわかるけれど、本気でこのスレに小説書いてる人は 字下げとかするでしょ、それもしてない。
この小説を3時間で作っちゃうってどういうことですかと。

ただ、
>雨に濡れた……ということにでもしておこうか。
これすっごい余計な一文に思う。作り話でした告白に読めるから落胆する。

>たしかに彼女のことは好きだけど、やっぱり恋愛感情ではないんだよ。
>心の底から大切なものは、けっして汚せない。追ってはいけない。そういうことなんじゃないかな。
こういう台詞、メッセージ性をそうだよねとちゃんと重さを感じてしまう。
小説読めたって気分になれた。
ストーリー的にはありきたり、少女像もステレオタイプ(これはおk)で、そこは十分に豊かに。
加えて2人称の工夫が+で効いた。文才自重。



これだけ褒められたのは初めてだったから
だからこそ初めにこのブログに載せたw

とはいえ深夜は判断力が落ちるので
鵜呑みはイカンとガイアが叫んでいる。