ふほう

面接2
終わったよー面接。たぶん落ちたね、ありゃ。なんせ10分だったもん。
面接のときはなるべくメモを取るようにしているけれど、場合によってはメモを取り出すタイミングがわからない。まあいいや。落ちるも八卦、落ちないも八卦


新書
また新書を読んでいる。今回は「失敗を生かす仕事術 / 畑村洋太郎」。買ってから気づいたけど、著者がまた東大名誉教授だった……。肩書きとか無視していきたい(けどそんなにできてない。悔しいでも感じry)んだけどね、買っちゃったもんはしょうがない、読もう。


アンコール
新しいアンコール曲きたね、V6。タイトル忘れたけど、ADVで76ぐらいだったから丁度いいね。バランス調整乙です、KONMAIさん。たぶんDriven ShooterのADVが出しやすいんじゃなかろうか。Drivenはもう少し頑張ればコンプできるレベルだからね。46とかそんぐらいだっけ。
ちなみにギターでは(ってか↑のはドラムの話ね、まったく唐突に話を始めるヤツはかなわんわ)、BACでもいけそうになかったから、Walnutsしてやめました。あんまし金もないしね。あんまし金もない死ね。


訃報
マイケル・ジャクソンが急逝したと知った。とくに知った人でもなく、好きな人でもない。むしろ彼の人気の理由が計り知れず、首を傾げていた。とはいえ、それは批判や非難とは別物だし、著名な人物の死には驚かされる。
去年の飯島愛の自殺騒動や、先日の三沢光晴の事件に続き、今回のマイケルの訃報。死は誰も逃れられないものだし、今だって見知らぬ人々が見知らぬ場所で死んでいるのは間違いないのに、訃報を聞くと驚いてしまう。死は非日常ではない。


死者を悼むこと
ちょっと暗い話だけど、いつものことだから構わずします。
人の死に際して、よく思い出を語りたがる人たちがいる。あまり俺はそういう人を信じない。いてもいいとは思うし、非難するつもりもないけど、信じない。なぜなら、そういう人たちは故人の生前を語ることで、他人と思い出を共有・確認しようと試みているから。誤解をおそれずに端的にいうと、「構ってちゃん」と同じだ。
言葉というものは、口に出した途端に嘘になることがある。人の死に関するものもそれにあたる。故人の生前をべらべらと語る人は、故人を媒介として他人とコミュニケーションをとっているに過ぎない。故人との関係性が深く落胆するほど、人は寡黙にコミュニケーションを閉ざすものじゃないだろうか。
そう思うようになったきっかけは、2008年6月8日の秋葉原無差別殺傷事件の後日だった。
呑み会のために秋葉原に行った。事件から1ヶ月ほど経ったころだったかもしれない。献花があった。そしてそこで手を合わせて黙祷している人がいた。その横を通り過ぎながら、ふと思った。この人たちは、事件の被害者を悼むことで、自分の優しさに酔ってるのかもしれないなあ。
ひょっとしたら、俺は非人道的なのかもしれない。ひょっとしたら、と云うのは、せめてもの抗いである。とはいえ、献花しようが黙祷しようがどれだけ深く悼み傷つこうが、死者は決して蘇らない。それでも悼むのはなぜか。それは死者のためではなく自分のため、生者のためだから。死者に思いが届いたためしを、確実な方法として知らない。霊的なものであれ直感的なものであれ、それは死者からの返答であると証明できるものがない。だから悼む思いが死者に届くことはなく、つまり生者のために他ならない。
そう考えると、欺瞞じゃないかと初めは思う。けれど、それが普通だ。欺瞞であるか否かは個人の判断に委ねられるが、それは特別なことではなく当たり前にされていることだろうと思う。そこで正しいか間違っているかということは、大して意味がない。なぜなら、人間はそういうものだから。死者を悼むということで、自分がいかに故人と親しかったか確認し、他者とコミュニケーションを図るもの――それが人間。もしそれを否定するなら、人間を否定することになる。否定しきれる人はすればいい。俺は人間とはそういうものだと諦観する道を選んだ。それだけのことだ。だから悼む人々を非難もしない、でも信じない。
そもそも人の死に関することは、すべて生者のためにある。ニュースであれ、こういう記事であれ。だから俺はこういう記事を書くことは、独善的で自分のためにしていることだと承知しながら書いている。


ということで、また惜しげもなく暗くなった。まあそう思ってるのは俺だけかもしれないんで、スルーするのもまた一興かもね。
それにしてもあの事件から、もう1年も経つのか……